【都市伝説】口裂け女は実在するのか?

【口裂け女は実在するのか?】

 

口裂け女(くちさけおんな)は、1979年(昭和54年)の春から夏にかけて日本で広まり、社会問題にまで発展した都市伝説である。

1978年(昭和53年)12月初めに岐阜県で噂が広まり、マスコミに初めて登場したのは1979年1月26日の岐阜日日新聞とされている。

この都市伝説は、全国の小・中学生に大きな恐怖を与え、福島県郡山市や神奈川県平塚市ではパトカーが出動する騒ぎとなり、北海道釧路市や埼玉県新座市では集団下校が行われるなど、市民社会を巻き込んだパニック状態にまで発展した。 

1979年6月29日号の「週刊朝日」にも記事が載り、その内容は「1978年12月初めに岐阜県本巣郡真正町で、農家の老婆が母屋から離れたトイレに立った際、口裂け女を見て腰を抜かした。」というものだった。

また、1979年6月21日には、兵庫県姫路市の当時25歳の女が、いたずらで口裂け女の格好をして包丁を持ってうろつき、銃刀法違反容疑で逮捕されるという事件も発生した。

しかし、それまで全国を席巻していた口裂け女の噂は、1979年8月に急速に沈静化した。

これは、夏休みに入った事で、子供達の情報交換が途絶えたためとされている。

 

「口裂け女の概要」

口元が完全に隠れるほどのマスクをした若い女が、学校帰りの子供に「私、キレイ?」と訊ねてくる。

そして、「キレイ」と答えると、「これでも?」と言いながらマスクを外す。

すると、その女の口は耳元まで大きく裂けていたというものだ。

「キレイじゃない」と答えると、包丁や鋏(はさみ)で斬り殺される。

殺されないためには、「普通」と答えるしかない。

 

「口裂け女のルーツ」

・説1

1754年(宝暦4年)、美濃国郡上藩(現在の岐阜県郡上市八幡町)で農民一揆が起こり、農民たちはその後、処罰される事となったが、中でも特に犠牲者が多かったのが白鳥村(現在の郡上市)だった。

この農民たちの怨念は、今も白鳥村に残っていると言われ、いつしかこれが妖怪伝説となって近辺に伝播し、時を経て口裂け女に姿を変えたという説がある。

 

・説2

明治時代中期、滋賀県信楽に実在した「おつや」という女がいた。

この「おつや」は、恋人に会うために山を隔てた町に行く際、女独りで山道を行くのは物騒なため、白装束に白粉を塗り、頭は髪を乱して蝋燭(ろうそく)を立て、三日月型に切った人参を咥え、手に鎌を持って峠を越えたという。

これが口裂け女の都市伝説のモデルになったという説がある。

 

・説3

発祥当時、岐阜県では小学校でも比較的裕福な家庭の子供だけが学習塾に通っていたため、あまり裕福でない家庭では子供に塾通いを諦めさせるために「夜道を歩いていると口裂け女に襲われる。」と言って、子供に夜の外出を怖がらせたという説がある。

 

・説4

岐阜県本巣郡近辺の教育熱心で怖い母親の姿が由来だという説がある。

 

・説5

愛知県で母親が娘にした話が様々な変化を伴いながら、全国に広まったという説がある。

 

・説6

1970年代に、岐阜県大垣市で座敷牢に閉じ込められていた精神病の女性が、口紅を顔の下半分に塗りたくった状態で夜毎に外出し、それを見た人が驚いたという説がある。

 

・説7

岐阜県多治見市の有名な心霊スポットのトンネルで、精神病の女性が徘徊して子供を脅かしていたという話が元になったという説がある。

 

・説8

江戸時代の「怪談老の杖」という怪談集には、江戸近郊にキツネが化けた口裂け女が現れたという話がある。

また、江戸時代の「絵本小夜時雨」という読本には、「吉原遊郭の廊下を歩いていた太夫を客が戯れに引き止めると、振り向いた太夫の顔は口が耳まで裂けていた。客はそのまま気を失い、その遊郭へ行く事は二度となかった。」とある。

 

その後も精神病と口裂け女を結び付ける事例の報告は多かったが、岐阜県近辺が発祥であるという点は、ほぼ一致している。

1990年代には、整形手術や医療過誤などの話題が出るに従い、再び口裂け女の話が広まり始め、整形手術に失敗して理性を失った女性が正体だと語られた。

また、CIAが噂の広まり方を検証するために流した情報だという説もあるようだ。

更に、1968年8月18日に岐阜県で発生した飛騨川バス転落事故の現場となった川から、白骨化した頭蓋骨が発見され、それを復顔すると口が耳まで裂けており、口裂け女はその亡霊だという説もある。

 

口裂け女の話は韓国でも流行したようで、日本統治下にあった頃の朝鮮半島で既に話があったという説もある。

日本統治下の頃、雪の夜にマスクをした女3人が家を訪ね、「誰が一番キレイ?」と聞き、その中の1人を選ぶと他の2人に殺され、マスクを外すと3人とも口が裂けていたという話が2001年に採集されているようだ。

 

「口裂け女の容姿」

口裂け女の容姿については、次のようないろいろな噂があるようだ。

・目はキツネで、声はネコに似ている。

・身長が2mを超えていた。

・血が目立たない真っ赤な服を着ている。

・血の目立つ真っ白い服を着ている。

・赤いベレー帽を被り、赤い服に赤いハイヒールを履いている。

・東京都江戸川区の噂では、赤い傘をさしており、その傘で空を飛ぶ。

・東京都王子の噂では、白いコートに白いブーツを履いている。

・東京都多摩川の噂では、薄汚い格好をしている。

・東京都八王子市や国分寺市の噂では、着物姿にサングラスをかけている。

・岡山県岡山市の噂では、片手にツゲの櫛(くし)を持っている。

・長い鋏(はさみ)や、出刃包丁、鎌、鉈(なた)、斧、メスなど複数の刃物を持っている。

 

「口裂け女の行動」

口裂け女の行動には、次のような噂があるようだ。

・耳まで裂けた大きな口で通行人を食べてしまう。

・人を何処かへ連れて行ってしまう。

・「ヨーグルト食べる?」と訊ねられ、「食べない」と答えると口裂け女に食べられる。

・後ろから肩を叩いてきて、うかつに振り向くと切りつけられるが、右肩を叩かれた時は左、左肩を叩かれた時は右から振り向くと回避できる。

 

「口裂け女の居場所」

口裂け女の居場所に関しては、次のような噂がある。

・三軒茶屋や三宮など、地名に「三」の文字がつく場所に多く現れる。

・体育館のステージの地下室に住みついている。

・神社に寝泊りしている。

・学校の保健室におり、いつもマスクをしている学校医が実は口裂け女。

・墓石の置き場所に現れる。

 

「口裂け女の身体能力」

・高速で走る事ができ、100mを6秒で走るという噂があり、12秒で走るという噂もある。

・空中に浮く事ができる。

 

「口裂け女は実は三姉妹」

口裂け女は実は三姉妹で、次のようないろいろな噂があるようだ。

・全員口が裂けている。

・口が両側裂けているのは1人で、もう1人は片方だけ裂けており、もう1人はメイクで裂けているように見せかけている。

・3人揃って整形手術をしたが、末の妹だけが手術に失敗して口が裂け、成功した2人の姉を羨んでいる内に精神に異常を来たし、子供を脅すようになった。

・3人全員が同時に事故に遭い、2人は死亡し、1人は生き残ったが事故で口が裂けた。

・1人は生まれつき口が裂けていたため、2人が同情して1人は自分で口を裂き、もう1人は口が大きく見えるメイクをした。

・山口県下松市の噂では、三姉妹の長女は整形手術の失敗で口が裂け、次女は交通事故で口が裂け、三女は口は裂けていなかったが、嫉妬した姉たちに口を裂かれた。

・実は2人姉妹で、姉が周囲からもてはやされていた事に妹が落ち込み、それを見た母親がハサミで姉の口を裂いた。

 

「口裂け女に遭遇した時の対処法」

口裂け女に遭遇した場合、効果的とされているのが、ポマードとべっこう飴だ。

・ポマードと3回(もしくは6回)続けて唱えると口裂け女が怯むので、その隙に逃げられる。

これは、過去に整形手術を担当した執刀医が多量のポマードを付けていて、その臭いが嫌いだからとされている。

また、ポマードを投げたり、振り掛けたり、手や足の裏に「ポマード」と書いたものを見せると、口裂け女を撤退させられるようだ。

 

・べっこう飴は口裂け女の好物なので、これを与えると口裂け女が飴をなめるのに夢中になり、その隙に逃げられる。

関東地方では逆に、口裂け女はべっこう飴が嫌いなため、投げつけると口裂け女が怯み、その隙に逃げられるようだ。

 

・口裂け女に遭遇した時に「ニンニク、ニンニク」や「ハゲ、ハゲ」と唱えると助かるらしい。

 

・口裂け女は犬が苦手なのか、手のひらに「犬」と書いて見せれば逃げるようで、「犬が来た、犬が来た」と唱えても逃げて行くようだ。

 

・これは対処法ではないが、血液型がO型の人間は口裂け女に襲われないそうだ。

 

「最後に」

口裂け女が実在するかどうかは分からないが、過去にこれだけ噂が広まったという事は、多くの人が本当にそのようなものを見たからなのかもしれない。

噂が流行した1979年には銀座のホステスの間で、手で口を覆って「私、キレイ?」と客に聞くサービスも流行しており、これに対し客は、ポマードやべっこう飴と答えなければならなかったようだ。

また、口裂け女の単語をもじって「口先女」という、おしゃべりな女性を指す言葉も生まれた。

 

 

【都市伝説】一夜にして埋没した帰雲城埋蔵金伝説

【帰雲城埋蔵金伝説】

 

1995年にユネスコの世界遺産に登録された白川郷(岐阜県大野郡白川村)の周辺には、1586年1月18日(天正13年11月29日)に起きたマグニチュード8.1の天正地震で、一夜にして埋没し、「日本のポンペイ」と言われる悲劇の城の埋蔵金にまつわる伝説がある。

その城の名を「帰雲城(かえりくもじょう)」と言う。

帰雲城は、当地の武将である内ヶ島氏(うちがしまし)の居城で、1462年頃に築城されたが、天正地震で帰雲山が崩壊し、埋没してしまった。

城以外にも家300戸以上が埋没し、死者は500人以上とされ、城主の氏理(うじまさ/うじとし)も飲み込まれてしまった。

この時、城の崩壊と共に大量の金も埋まったという伝説がある。

岐阜県北部は鉱山が多く、ルーツなど不明な点が多い内ヶ島氏も「領内に鉱山を持っていた」という話があり、埋蔵金の規模は5,000億円~2兆円と言われている。

しかし、城があった正確な位置は現在も特定されていない。

帰雲城趾と書かれた石碑が建っているが、石碑の下に帰雲城が埋まっていると確認されている訳ではない。

近年の学術調査によると、地震で崩れた山跡に分布する溶結凝灰岩と対岸の保木脇付近の堆積物は一致しているようだが、未だ城の痕跡は発見されていない。

白川郷埋没帰雲城調査会のメンバーらは、長年に渡り埋まった城を探す活動を続けており、35mほどの深さの所に城が埋まっていると推測しているようだが、個人の発掘では容易な深さではないようだ。

今後も古文書などの研究で、城の位置を絞り込みながら現地調査を続けていくようだ。

果たして、埋まった城を掘り当てる事はできるのだろうか。

 

 

都市伝説 長野県編

【姨捨山】

 

長野県千曲市と東筑摩郡筑北村にまたがる冠着山(かむりきやま)は、姨捨山(おばすてやま)とも呼ばれており、60歳になった年寄りをこの山に捨てに行っていたという伝説がある。

その昔、年寄りの事が大嫌いな殿様がおり、「60歳になった年寄りは山に捨てること」というおふれを出した。

殿様の命令には誰も逆らえず、親も子も、その日が来たら山へ年寄りを捨てに行くものと諦めていた。

そんなある日の事、1人の若い男が60歳になった母親を背負って山道を登って行った。

すると、背負っている母親が「ポキッ、ポキッ」と木の枝を折っては道に捨てているのに気付いた。

男は不思議に思ったが、何も聞かずにそのまま歩き続けた。

 

母親を捨てる場所は深い山奥で、男が母親を置いて帰る頃には辺りは真っ暗闇になっていた。

男は道に迷い帰れなくなったため、母親のいる場所に引き返した。

そして、戻ってきた男の姿を見た母親は、「こんな事もあろうかと、途中で枝を折ってきた。それを目印にお帰り。」と静かに言った。

子を想う親の優しさに触れた男は、殿様の命令に背く覚悟で、母親を家に連れて帰った。

 

それからしばらくして、隣の国が「灰で縄をないなさい。できなければ貴方の国を攻める。」と言ってきた。

殿様は困り果て、誰か知恵のある者はいないかと国中におふれを出した。

男がこの事を母親に伝えると、母親は「塩水に浸したワラで縄をなって焼けばよい。」と教えてくれ、男は教えられた通りに灰の縄を作り、殿様に差し出した。

しかし、隣の国は、また「曲がりくねった穴の空いた玉に糸を通せ。」という難題を言ってきた。

男は母親から「1つの穴の周りにハチミツを塗り、反対側の穴から糸を付けたアリを入れなさい。」と教えられ、この事を殿様に伝えた。

すると、隣の国は「こんな知恵者がいる国と戦っても、勝てるわけがない。」と、攻め込むのを諦めた。

殿様はたいそう喜び、男を城に呼んで「褒美をとらす。欲しいものを言うがよい。」と言ったが、男は「褒美はいりません。」と言い、母親の事を殿様に話した。

すると殿様は「なるほど、年寄りというものは有り難いものだ。」と、自分の考えが間違っていた事に気付き、年寄りを山に捨てる事を止めさせた。

これにより、どの家でも年老いた親と仲良く暮らせるようになった。

 

この話の素になったのは、平安時代中期(950年頃)に成立した「大和物語」という中古日本の物語と言われており、今話した内容とは少し異なっている。

 

「大和物語の姨捨山の概要」

信濃の国の更級という所に男が住んでいた。

男は、幼い時に親が死んでしまったため、伯母が幼い時から親のように付き添ってくれていた。

しかし、男の妻は薄情で、伯母が歳を取って腰が曲がっていたのを常に憎らしく思っており、男にも伯母の心がひねくれていて良くないと言い聞かせていた。

男も昔のように伯母を大切にせず、おろそかにする事が多くなっていった。

 

伯母がたいそう年老いて腰が折れ曲がってきていた事を、嫁はいっそう厄介に思い、今までよく死ななかったものだと悪口を言いながら、「伯母を連れていらっしゃって、深い山にお捨てになってください。」とばかりに男をせきたてたため、男もそうしようと思うようになった。

そして、月の明るい夜に男が、「おばあさんや、さあいらっしゃい。寺でありがたい法要をするというので、お見せ申し上げましょう。」と言うと、伯母は大いに喜んで男に背負われた。

男は高い山の麓に住んでいたので、その山の遥か遠くまで入っていき、高い山の峰で、下りて来る事ができないような所に伯母を置いて逃げた。

伯母は「これ、これ」と言ったが、男は答えもしないで逃げて家に帰った。

そして、家に帰ってから伯母の事を考えていると、あの時は腹を立ててこのような事をしたが、長年親のように養い続けて一緒に暮らしていたため、とても悲しく思えてきた。

男は一晩中寝る事ができず、悲しく思えてきたので、「自分の心を慰めることができません、更級の姨捨山に照る月を見ていると。」という歌を詠み、山へ行って伯母を連れて戻ってきた。

それからこの山の事を「姨捨山」と呼ぶようになったという。

 

 


【紅葉伝説】

 

紅葉伝説(もみじでんせつ)は、長野県に伝わる鬼女にまつわる伝説である。

937年(承平7年)、会津に笹丸と菊世という夫婦が住んでいた。

この夫婦は子供に恵まれず、何とか子供を授かりたいと思っていた。

そんなある時、「第六天の魔王におすがりしなさい。」と教えられ、早速身を清めてお願いする事にした。

すると、それは美しい玉のような女の子を授かる事ができた。

夫婦は女の子を呉葉と名付け大事に育てたが、呉葉は美しいだけでなく、読み書きや和歌作り、琴を弾く事にかけては天才的だった。

やがて呉葉の評判は広まっていき、親子3人は村を出て京都に行った。

そして、呉葉は名前を紅葉と改め、琴を教えるようになった。

 

ある暑い夏の夕方、源経基(みなもとのつねもと)公の奥方が四条河原に涼みに来ていたが、その帰りに近くの家からとても美しい琴の音が聞こえてきたので、奥方は「ぜひもう一度聞かせてください。」と紅葉に頼んだ。

これが縁となり、紅葉の評判は源経基公の耳にも入り、紅葉は大勢の人の前で琴を弾く事になった。

紅葉は日頃から信仰していた第六天の魔王に演奏の成功を祈り、大成功を収めた。

そして、源経基公から可愛がられるようになり、子供も授かった。

すると、紅葉は奥方が邪魔だと思うようになり、奥方が病気で亡くなるよう、毎晩、第六天の魔王に祈るようになった。

しかし、僧侶にその悪事が見つかり、紅葉たち親子3人は罪人として信州の戸隠(とがくし)に流され、荒倉山の岩屋に住む事になった。

ところが、紅葉は妖術を使って病気の村人を治療したり、裁縫や琴を教えていたので、村人たちは紅葉を尊敬するようになった。

 

暮らしが落ち着いた頃、紅葉はもう一度京都に戻って源経基公に愛され、贅沢な暮らしがしたいと思うようになった。

すると、いつしか紅葉に鬼の心が芽生え、一夜山の山賊たちを妖術で従え、悪事を働くようになった。

そして、その噂は京都の天皇の耳にも入り、「鬼女紅葉を退治せよ。」という勅命が平維茂(たいらのこれもち)将軍に言い渡された。

将軍は本陣を塩田(上田市)に構え、第一軍の総大将を河野三郎に命じ、鬼女退治に向かわせた。

そして、第一軍が裾花川のほとりに来ると、突然空が真っ暗になり、火の雨や大洪水が押し寄せ、第一軍はひとたまりもなく押し返されてしまった。

敗戦の知らせを受けた将軍は、「紅葉ごとき女に何を恐れているのだ!」と怒り、成田左衛門が総大将の第二軍を送り込んだが、第一軍と同じように、どうする事もできなかった。

将軍は「もう我慢ならん!紅葉め、私が退治してやる!」と自ら剣を取り、紅葉退治の作戦を練った。

そして、別所にある北向観音に17日間の断食の願をかけ、満願の朝に夢枕でもらった降魔の利剣を持ち、鬼女のいる洞窟を襲った。

すると、観音様の力のお陰か、妖術を使おうとした紅葉の体が硬くなり、紅葉は妖術が使えなかった。

将軍はその隙に降魔の利剣で鬼女紅葉の首をはねた。

鬼女紅葉の首は、7回宙を飛び空の彼方に消え、体は地面に倒れ死んでしまった。

そして、将軍は「信濃なる北向き山の風さそい妖し紅葉は疾くと散りにけり」という歌を詠んだ。

 

この話は「紅葉狩」という謡曲の題材にもなっており、毎年10月第4日曜には長野市鬼無里(きなさ)にある松巌寺で、紅葉を偲んだ「鬼女紅葉祭り(きじょもみじまつり)」が開催されている。

 

 


【幻の滝】

 

長野県下高井郡木島平村に「樽滝(たるだき)」という滝がある。

この滝は樽川の上流にあり、樽川は連続して2本の滝を懸けている。

上流側から順に雄滝・雌滝と言うが、元々「樽滝」はこの2本の滝の総称だった。

国道403号と長野県道451号七曲西原線が交わる所には、玉滝不動尊という神社が建っており、国道から見て樽川を挟んだ対岸には高さ約80mの岸壁がそびえている。

この岸壁には毎年5月8日と10月の2回だけ現れる幻の滝がある。

元々、この幻の滝は、1923年に樽川上流で取り入れた水を、中部電力の樽川発電所に送る途中に、導水路からこぼれた水が滝となって樽川に落ちた事で現れたものだったが、いつしかこれも「樽滝」と呼ばれるようになった。

1984年に別の導水路が開通した事で「樽滝」には水が流れなくなり、一旦は消滅した滝だったが、地元住民や写真愛好家などからの要望で、1987年から年2回だけ限定で「樽滝」に放水し、再び現れる事となった。

 

「樽滝の言い伝え」

・夕方に雄滝に近付くと、滝の底に引きずり込まれるという言い伝えがある。

 

・雌滝には広い滝壺があり、そこには大蛇が住んでいるという言い伝えがあったが、長い年月の間に自身の体が大きくなり、手狭になってしまった。

そして、大蛇は近くの寺の僧の夢枕に立ち、雌滝へ引っ越したいと告げたという。

僧は、村人たちと共に馬を8頭用意し雌滝に向かい、大蛇は雌滝の主となった。

以来、柏尾が水不足になった時は雌滝で雨乞いをすると、たちまち雨が降り始めたという。

 

・年2回だけ現れる幻の滝を見ると幸せになれるという都市伝説があり、幻の滝を見に訪れるカップルもいるという。