【豊臣秀吉黄金伝説】多田銀銅山に眠ると言われる260兆円の黄金

【豊臣秀吉黄金伝説】

 

1598年(慶長3年)の夏、豊臣秀吉が死の床についた時、後継ぎの秀頼はまだ6歳だった。

政権を託すには若過ぎたため、秀吉はこの不安を解消するために勘定奉行の幡野三郎光照に命じて、莫大な黄金を埋蔵させたという伝説がある。

この黄金は朝鮮出兵の軍用金の残りで、その量は天正長大判4億5千万両と金塊3万貫(112.5トン)にもなり、金の地金としての価値だけでも約260兆円という莫大な金額になる。

 

埋蔵した場所は、兵庫県猪名川町の多田銀銅山の坑道内とされている。

ある税務署員が「秘文書を見た」という新聞投稿がされてから日本中が騒然としたのが、この埋蔵金伝説だ。

だが、太平洋戦争後に三重県と大阪府のある旧家から発見された埋蔵秘文書をもとに、これまで多くの人が黄金の探索をしてきたが、未だ黄金のかけらも発見されていない。

多田銀銅山は、奈良時代から銅や銀の採掘が行われてきたため無数の坑道があり、中には埋まっている部分や水没している所もあるので、黄金を探し当てるのは並大抵の事ではないようだ。

約260兆円もの黄金が埋まっているかどうかは分からないが、何かが隠されている可能性は十分にあるようだ。

だが、秘文書が学術的な鑑定を受けたかどうかは分からず、「学者に協力を求めて調査を進めた」や「博物館で太鼓判を押された」などの断片的なものばかりで、具体的な鑑定者や鑑定結果が明記されていないものばかりとなっている。

 

そんな中、1954年の産経新聞に掲載された「時価23兆円の宝探し」という題名の記事に登場する、京都大学の鉱山学者である三雲英之助教授が「現在どの程度の財宝が残っているかは分からないが、豊臣秀吉が多田銀山に膨大な金塊や財宝を埋蔵した事は信ずるにたる歴史上の事である。」と言い切っているのだ。

三雲助教授は当時、探索者たちから協力を求められ、秘文書に目を通している人物なのだ。

どう調べたのかは定かではないが、埋蔵を史実と断定している点は大いに注目できる点ではないだろうか。

ところが、三雲助教授は後に産経新聞の記事の内容を全否定している。

彼が70年に書いた「多田銀山盛衰記」という冊子の中で、「筆者談として全く話さなかった事が新聞に載っている。」と暴露している。

産経新聞の記者が不正確に書いたのかどうかは今となっては分からないが、これにより秘文書が学者のお墨付きを得たとは言えなくなってしまった。

 

逆に、埋蔵金伝説に懐疑的な見解を持っている人もいる。

その理由は莫大過ぎる埋蔵量にあるようだ。

いかに秀吉といえども、4億5千万両というのは当時の金の生産量から考えると、あまりにも非現実的な数字だからだ。

 

この埋蔵金を探し出すために現地に住み着き、30年以上も家族も定職も持たず、探し続けた人もいたようだ。

この人は夢を果たせないまま生涯を終えたようだが、もし発見できればまさに一攫千金だ。

果たして豊臣秀吉の黄金は、多田銀銅山に眠っているのだろうか。

 

 

立ち入り禁止の廃墟と化した非運のホテル「摩耶観光ホテル」

【摩耶観光ホテル】

 

摩耶観光(まやかんこう)ホテル、通称「マヤカン」は、かつて兵庫県神戸市灘区の摩耶山の中腹に存在していたホテルで、鉄筋コンクリート造で軍艦を連想される外見から「軍艦ホテル」と呼ばれていた。

1929年(昭和4年)11月から営業を開始したが、1944年(昭和19年)に第二次世界大戦が激化した事で、摩耶鋼索鉄道摩耶ケーブル線が不要不急線として運行が停止されたため、ホテルも1945年(昭和20年)に営業を休止した。

また、戦時中の空襲で大きな被害を受けた事で復旧が遅れ、その後はケーブル会社から民間業者に売却され、1961年(昭和36年)に全面改装して再オープンしたが、台風などによる被害で1967年(昭和42年)頃に営業を休止し、1974年(昭和49年)頃からは学生のゼミ合宿やサークル合宿のための「摩耶学生センター」として転用されたが、1993年(平成5年)に学生の合宿所としての使用も停止された。

更に、1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神淡路大震災により建物が大きく損傷したため、ホテル脇を通る登山道も通行止となった。

 

下の画像は、摩耶観光ホテルの航空写真となっている。

摩耶観光ホテル付近の航空写真
引用:googleマップ

 

現在は立ち入り禁止の廃墟となっているが、巨大廃墟の心霊スポットとして兵庫県ではかなり有名な場所となっている。

この辺りは霊山となっているため、霊が集まってくるのか様々な目撃情報があるようだ。

基本的にはキレイな景色が見える部屋が連なっているが、風呂場やトイレは霊的に危険な場所とされている。

実はこのホテルは、やらせで打ち切りとなったクレイジージャーニーの奇界遺産の旅で、特別な許可を取って撮影されている。

番組内では「廃墟の女王」と紹介されていた。

摩耶観光ホテルの写真
引用:クレイジージャーニー
摩耶観光ホテル内部の写真
引用:クレイジージャーニー

 

廃墟マニアの聖地にもなっているようだ。

また、毎月1回、摩耶山の歴史痕跡を山道を下りながら紹介してくれる「摩耶山・マヤ遺跡ガイドウォーク」というツアーがあり、このツアーに参加すればホテルにも接近できる。

このツアーの参加費(ロープウェイ代込み)は、大人が3,000円、子供が2,400円となっている。

興味がある人は一度参加してみてはどうだろう。

 

 

【都市伝説】日本は淡路島から始まった?

【日本は淡路島から始まった?】

 

淡路島は兵庫県に属する島で、過疎地指定地域が存在しない数少ない島でもあるが、この淡路島から日本が始まったという伝説がある。

まだ世界に形がなかった遠い昔、国土創世のため天より遣わされた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二柱の神は、どろどろの世界を凝り固めるため、「天の沼矛(あめのぬぼこ)」で大海原をかきまわした。

すると、矛から滴る雫が自ら凝り固まり、島となったという。

これが「自凝島(おのころじま)」である。

二柱の神はこの島に降り立ち、そこで夫婦の契りを結び、国生みの儀式を行った。

そして、二柱の神は次々と島を造り、やがて誕生したのが日本であるという。

 

この話を今に伝える古事記や日本書紀によると、その時世界で最初に誕生したのが「淡路穂狭別島(あわじのほのさわけのしま)」、すなわち淡路島だという。

淡路島には、日本の始まりの時を刻んだ国生み神話ゆかりの場所が数多く存在しており、訪れる人を悠久の彼方に誘うと言われている。

伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)は、国生みに始まる全てのご神功を果たした伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、後に余生を過ごしたという住居跡に建てられた日本最古の神社だそうだ。

下の写真は伊弉諾神宮の写真で、兵庫県で唯一「神官号」を宣下された神社となっている。

伊弉諾神宮の写真
出典:淡路島観光ガイド・あわじナビ

 

この他にも、自凝島とされている「おのころ島神社」、「絵島」、「沼島」など、島内のあちこちに神話のロマンが漂っている。

 

 

都市伝説 三重県編

【売春島】

 

三重県志摩市の伊勢志摩国立公園内にある渡鹿野島(わたかのじま)は、かつて売春島と呼ばれていた。

昔は伊雑宮の神領であったとも言われ、江戸時代には江戸と大坂を連絡する菱垣廻船・樽廻船が増えた事もあり、避難・風待をする港としての重要性が高かった。

船乗りなどのための宿や、風待ちの船乗りを相手とした把針兼(はしりがね)と言われた水上売淫婦なども集まり、遊廓街としても大いに栄え、女護ヶ島といった別名を持つ事となった。

 

この島の主な産業(2000年の国税調査時)は、島内外の宿泊業・飲食業で、島の約92%の人が従事している。

海水浴やスペイン村の宿泊地として、家族連れや団体の人たちに利用される他、売春を目的とした男性客が島を訪れる事も多かったが、近年では売春に従事する人は著しく減少しており、高齢化もしているようだ。

志摩市の資料によると、1995~2005年の人口減少率は30%以上で、65歳以上の人が35~40%を占めており、島の過疎化が進んでいる。

現在の島の人口は約270人となっている。

また、廃業したホテルの廃墟もそのまま放置されているようだ。

 

1971年に三重県警の警部補が、内偵特捜の捜査官として渡鹿野島に潜入したが、売春婦と内縁関係になり諭旨免職処分となっている。

この元警部補は、その後、島でスナック経営者兼売春斡旋者となっていたが、1977年10月に行われた手入れで内妻と共に逮捕され、売春婦が保護された。

保護された売春婦の大半は家出少女などで、借金返済のために島に送られ売春をさせられていたという。

2003年頃、この島には至る所に風俗関連(主に売春)の斡旋所があったため、警察や報道関係者に対する警戒心が極めて強く、島全体に入島者に対する情報網が張られていた。

また、うかつに写真を撮る事もできなかったという。

 

渡鹿野島は、2016年5月に行われた伊勢志摩サミットの会場となった賢島の近くにあったため、雑誌媒体などを中心とした複数のメディアが売春産業地という渡鹿野島の現状ルポと同時に、行政体質を指摘し始め話題となった。

だが、この数年前から年に3回も手入れが行われていた事で、売春婦たちは次々と逮捕され、島を出て行く売春婦も多かった。

伊勢志摩サミット開催にあたって、警察が島を訪れ島周辺を調べはしたが、摘発や手入れなどは無かったという。

恐らく、数年前から行われてきた手入れで、売春婦などはほとんど居なくなっていたのだろう。

 

渡鹿野島の航空写真
出典:志摩市ホームページ

 

上の写真のように、渡鹿野島は上から見るとハート型をしているのが分かると思う。

このため島では、恋愛が成就するハートアイランドとして島の認知度を高めようとしている。

また、2015年には、下画像の「わたるくん」と「かのんちゃん」という渡鹿野島公認のゆるキャラも誕生している。

渡鹿野島公認のゆるキャラ「わたるくん」と「かのんちゃん」の画像
出典:渡鹿野島ホームページ

 

 

「渡鹿野島のパワースポットや観光スポット」

・居守大明神

居守大明神の写真
出典:渡鹿野島ホームページ

渡鹿野島のNo.1パワースポットは、居守大明神という歯の神様のようだ。

渡鹿野島のすぐ前に浮かぶ居森島に祀られており、地元では「はくささん」と呼ばれている。

居守大明神が参拝者の歯を治してくれるという言い伝えがあり、毎年多くの歯科医師などが訪れている。

 

・わたかのパールビーチ

わたかのパールビーチの写真
出典:渡鹿野島ホームページ

ここでは夏は海水浴、冬にはビーチ散策が楽しめる。

遠浅で緩やかな浜なので、子供でも楽しめそうだ。

 

・わたかの園地

わたかの園地の写真
出典:渡鹿野島ホームページ

昔、この地に大きな竹竿を見通す事で、江戸と大阪を行き来する樽廻船へ暗礁を知らせていたようだ。

今では絶景スポットとして、ピクニックや散歩に訪れる人が増えている。

天気の良い日には、富士山も見えるようだ。

 

・釣りスポット

渡鹿野島の釣りスポットの写真
出典:渡鹿野島ホームページ

渡鹿野島は、本格的な釣りを楽しみたい人や初心者にも最適の場所のようだ。

最近ではフィッシング女子も増えているようだ。

 

・ギャラリーカモメ

渡鹿野島にあるギャラリーカモメの写真
出典:渡鹿野島ホームページ

2014年11月にオープンした店で、島の魅力などを感じられるようになっている。

島民との交流もでき、ありのままの渡鹿野島を知る事ができる。

また、音楽を聴きながらコーヒーを飲む事もできるようになっている。

 

渡鹿野島は宿泊施設も充実しているようなので、気になった人は一度行ってみてはどうだろう。

 

 


【鬼退治伝説】

 

三重県南東部にある鬼ヶ城の写真
出典:鬼ヶ城センター

 

三重県南東部にある鬼ヶ城(おにがじょう)は、伊勢志摩から始まるリアス式海岸の南端に位置し、熊野灘の荒波に削られた大小の海蝕洞が約1.2kmも続く凝灰岩の大岸壁だ。

その昔、平安時代の桓武天皇の頃、この地に隠れて熊野の海を荒らし廻り、鬼と恐れられた多娥丸(たがまる)という海賊がおり、将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、天皇にこの多娥丸の征伐を命じられた。

すると、近くの烏帽子山に大馬権現の化身の天女が現れ、鬼の隠れ家(現在の鬼ヶ城)の場所を教えてくれたが、その場所は断崖絶壁で磯は波が激しく、とても近寄れる所ではなかった。

 

そんな時、沖の魔見ケ島に童子が現れ、舞い唄い、軍勢も加わり大騒ぎした。

鬼神が油断して岩戸を開く一瞬の間に将軍が矢を放ち、見事一矢で鬼を仕留めた。

すると、童子が光を放ちながら北の峰に飛び去って行ったため後を追って行くと、紫雲たなびき芳香に満ちた洞窟(清滝の上流)があり、そこに「守仏の千手観音を納め安置した。」という伝説が残っている。

そして、鬼を退治した坂上田村麻呂の軍が、勝利を称え音楽を奏でながら行進した事から、松本峠の下にある橋は「笛吹橋(ふえふきばし)」と呼ばれている。

また、討ち取った鬼の首は、熊野市井戸町にある大馬神社に埋められたとされている。

 

鬼ヶ城は、この鬼退治の伝説に基づき「鬼の岩屋」と呼ばれていたが、後に鬼ヶ城と呼ばれるようになった。

1927年(昭和2年)に日本を代表する100の景勝地「日本百景」に選ばれ、1935年(昭和10年)には国の天然記念物に指定され、2004年(平成16年)にはユネスコの世界遺産にも登録された。

坂上田村麻呂が建立したとされる大馬神社では、毎年1月6日の祭礼の日に、1年の平安を祈る「弓引き神事」が行われている。