日本犯罪史に名を残す有名な事件

【足利事件】

 

1990年5月12日、栃木県足利市にあるパチンコ店の駐車場から女児が行方不明になり、翌13日の朝、近くの渡良瀬川の河川敷で、行方不明になっていた女児の遺体が発見された、殺人・死体遺棄事件である。

翌年の1991年、事件と無関係だった菅家 利和(すがや としかず)という人物が、被疑者として逮捕され、被告人として起訴された。彼は、刑事裁判で無期懲役が確定し、服役することとなった。

しかし、2009年5月に再鑑定を行った結果、遺留品のDNA型が彼のものと一致しないことが判明し、彼は無実の冤罪だったことが明らかとなった。

彼はただちに釈放され、その後の再審で無罪が確定した。彼の無罪が確定するまでの長い間、日本弁護士連合会はずっと再審を支援していた。

そして真犯人は検挙されず、時効が成立してしまった未解決事件でもある。

この事件を含めた、足利市内の渡良瀬川周辺で遺体が発見された3つの事件は、「足利連続幼女誘拐殺人事件」と呼ばれている。

 


【悪魔の詩訳者殺人事件】

 

悪魔の詩訳者(うたやくしゃ)殺人事件は、1991年7月11日に発生した殺人事件である。

1991年7月12日、筑波大学助教授だった五十嵐一が、同大学の筑波キャンパス人文・社会学系A棟7階のエレベーターホールで刺殺されているのが発見された。

司法解剖の結果、前日に殺害されたものと断定された。また、現場に残されていた、五十嵐氏の血液型と一致しないO型の血痕や、犯人が残したと見られる中国製のカンフーシューズの足跡(サイズ27.5cm)が見つかった。

五十嵐氏は、1990年にサルマン・ラシュディの小説「悪魔の詩」を邦訳しており、当時イランの最高指導者であった、ルーホッラー・ホメイニーは、1989年2月、同書が反イスラム的であるとし、サルマン・ラシュディや発行に関わった関係者などに対する死刑を宣告する、ファトワーを発令していたため、事件直後からイラン政府との関係が取り沙汰されていた。

そして2006年7月11日、真相が明らかにならないまま時効が成立し、未解決事件となっている。

 


【井の頭公園バラバラ殺人事件】

 

1994年4月23日、東京都三鷹市にある井の頭恩賜公園のゴミ箱に、ポリ袋に入った人間の足首が捨てられているのが発見された。

発見したのは清掃員の女性で、猫の餌を探していたところ、偶然ポリ袋を開けたことにより発見された。 

その後、駆けつけた警察官らが公園一帯を捜索したところ、7か所のゴミ箱から、計27個に切断された手・足・胴体の一部が、袋に入れられた状態で発見された。

袋は小さい穴の開いた水切り用の黒い袋と半透明の袋の二重になっており、漁師らがよく使う特殊な結び方できつめに結ばれていた。

手足の指紋のほぼ全てが削り取られていたが、わずかに残っていた指紋とDNAから、被害者は公園の近くに住む一級建築士の男性(当時35歳)であることが分かった。死因は不明で、肋骨の筋肉繊維に僅かな生前出血の跡が見られた。

目撃証言などから怨恨説や事故遭遇説、遺体の状態から複数人による組織的な犯行や異常性が感じられることから、宗教団体関与説など、様々な説が錯綜していた。

しかし、被害者の交友関係からは全く犯人に結び付くものはなかった。また、犯人に関する物証や情報も乏しく、犯人の特定に至ることなく2009年4月23日、時効成立となった。

犯人の動機など、謎が多い未解決事件である。

 


【三億円事件】

 

1968年12月10日、東京都府中市で発生した有名な窃盗事件である。三億円事件とも呼ばれている。

現金輸送車に積まれた東京芝浦電気(現在の東芝)従業員のボーナス約3億円が、偽の白バイ隊員によって奪われた事件である。

現在の貨幣価値に換算すると、約10~20億円に相当する金額である。

この事件がきっかけで、日本では多額の現金輸送の危険性が考慮されるようになり、給料等の支給を口座振込にしたり、専門の訓練を積んだ警備員による現金輸送警備が増加した。

三億円強奪事件とも呼ばれているが、事件のあった日本において、本事件は強盗罪には該当せず、窃盗罪となる。

警視庁捜査において容疑者リストに載った人数は実に11万人にのぼる。捜査に関わった警察官は延べ17万人、捜査にかかった費用は7年間で9億円以上にもなった。

犯人が残した遺留品が120点もあり、当時は楽観ムードだったが、窃盗品や大量に出回っている物ばかりで、犯人の特定には至らなかった。

目撃証言も多数寄せられ、モンタージュ写真も公表されたが、これも犯人の特定には至らなかった。

事件現場となった付近には、当時学生が多く住んでいたことから、辺り一帯のアパートに「ローラー作戦」と呼ばれた、全室への無差別聞き込みを行ったが、これもまた犯人の特定には至らなかった。

空前の大捜査となったが、1975年12月10日、公訴時効が成立した。1988年12月10日には、民事時効も成立した。

時効成立後、テレビ等で多く取り上げられることが原因で、この事件の犯人を自称する人物が何人も登場している。

この事件を題材とした映画なども多数制作された。

この事件は、犯人が「完全犯罪」を成し遂げた、日本犯罪史に名前を残す未解決事件である。

 


【帝銀事件】

 

帝銀事件(ていぎんじけん)とは、1948年1月26日に、東京都豊島区長崎の帝国銀行(後の三井銀行で、現在の三井住友銀行)椎名町支店で発生した毒物殺人事件である。

太平洋戦争直後の混乱期の中、GHQの占領下で起きた事件で、未だに多くの謎が解明されていない事件である。

1948年1月26日午後3時過ぎ、閉店直後だった帝国銀行椎名町支店に、東京都防疫班の白腕章を着用した中年の男が、厚生省技官の名刺を出し、「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい。感染者の1人がこの銀行に来ている」と嘘をつき、行員と用務員一家の計16人に青酸化合物を飲ませたという事件である。

犯人は、全員に青酸化合物を飲ませられるように遅効性の薬物を使用し、怪しまれないように自分が先に薬物を飲んでみせた。

更に、「歯の琺瑯質(エナメル質)を痛めるから舌を出して飲むように」などと伝え、確実に嚥下させたり、第一薬と第二薬の2回に分けて飲ませたりと、巧妙な手口を使っていた。

犯人が先に薬物を飲んだことで、行員達は男を信用し、青酸化合物とは知らずに薬物を飲んでしまった。

そして、青酸化合物を飲まされた16人のうち11人が直後に死亡、搬送先の病院で1人が死亡し、計12人が殺害された。

犯人は現金16万円と、安田銀行(後の富士銀行で、現在のみずほ銀行)板橋支店の小切手を奪って逃走したが、現場が集団中毒により混乱していたことで初動捜査が遅れ、犯人の身柄を確保できなかったばかりか、現場保存も出来なかった。

奪われた小切手は翌日に現金化されていた。しかし、関係者がこの小切手の盗難を確認したのは、事件発生から2日経った28日の午前中だった。

事件後、犯人から受け取った名刺を支店長代理が紛失していたことが判明した。手掛かりは、支店長代理の記憶と、2件の類似事件の遺留品の名刺、生存者たち全員の証言から作成された犯人の似顔絵、そして事件翌日に現金化された小切手だった。これをもとに捜査は進められた。

そんな中、捜査本部の脇役的存在だった名刺班の、類似事件で悪用された松井蔚の名刺の捜査に焦点が当てられていった。

松井蔚は、名刺を渡した相手や日付、場所を記録していたため捜査も進んでいった。

100枚あった名刺のうち松井蔚の手元に残っていたのが8枚、残る92枚のうちの62枚は回収に成功、紛失して事件に無関係と見られた22枚を確認した。そして、行方が分からない8枚のうちの1枚を犯人が本事件で使用したとされた。

そして1948年8月21日、松井蔚と名刺交換した人物の1人である、テンペラ画家の平沢貞通を北海道小樽市で逮捕した。

逮捕理由は、平沢が松井の名刺を持っていなかったこと、平沢が「事件発生時刻は現場付近を歩いていた」と供述していたが、そのアリバイが証明できなかったこと、過去に銀行で詐欺事件を起こしていること、そして事件直後に被害総額とほぼ同額を預金していたが、その出所を明らかにできなかったことなどである。

逮捕後、平沢を被害者に面通ししたが、この人物だと断言した者は一人もいなかった。

平沢は一貫して犯行を否認していたが、拷問のような取り調べの末、9月23日から自供を始め、10月12日に帝銀事件と他の2銀行の未遂類似事件による強盗殺人と強盗殺人未遂で起訴された。

平沢に行われた取調べは、かなり厳しいものだったと言われており、平沢は逮捕された4日後の8月25日に自殺を図っている。その後も2回の自殺を図るも全て未遂に終わっている。

平沢は、12月20日より東京地裁で開かれた公判において、自白を翻し無罪を主張するも、1950年7月24日、東京地裁で一審死刑判決、1951年9月29日、東京高裁で控訴棄却、1955年4月7日、最高裁で上告棄却、5月7日、死刑が確定した。

死刑確定後、刑が執行されないまま30年以上の月日が流れ、1987年5月10日、午前8時45分、平沢は肺炎を患い、八王子医療刑務所で病死した。95歳だった。

平沢の死後、捜査本部の刑事に協力していた伴繁雄がテレビ出演し、真犯人は平沢でなく、元陸軍関係者だと発言している。

そして、捜査に携わっていた成智英雄という捜査員が後の手記で「帝銀事件は平沢のように毒物に関する知識を何も持たない人物には不可能で、真犯人は元秘密部隊にいた人物」としている。更に「731部隊の内50数人を調べた結果、経歴・アリバイ・人相が合致するのはS中佐しかいない」とも記されている。

しかし、S中佐と同じ苗字の名前が似ている2人の人物は確認できたが、S中佐と同姓同名の人物は確認できていない。

更に、事件から6年後の1954年、茨城県内で青酸を使用した大量殺人事件が発生し、この手口が帝銀事件と酷似していたことで、弁護人が調査の為に現地に向かったが、逮捕された容疑者が服毒自殺を図ったため調査は進展していない。

このように帝銀事件は、未だ多くの謎が解明されていない事件なのである。

 


【グリコ森永事件】

 

グリコ森永事件とは、1984年と1985年に、阪神を舞台にし、食品会社を次々と脅迫していった有名な脅迫事件である。犯人が「かい人21面相」と名乗ったことから、「かい人21面相事件」とも呼ばれている。

1984年3月、江崎グリコ社長を誘拐して身代金を要求するという事件が起こった。そして、この事件を皮切りに、次は江崎グリコに対し脅迫や放火を起こした。

その後、丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋などの食品会社を次々と脅迫していった。

犯人は、現金の引き渡し場所を次々と変更し、指定してきたが、犯人が現れることは一度もなかった。

犯人と思われる人物が何度か目撃されたが、逃げられてしまったために、結局正体を掴むことは出来なかった。

この事件は、1984年4月12日に、警察庁広域重要指定事件に指定された。

その他の事件として、1984年5月と9月、そして1985年2月に、愛知の小売店に青酸入りの菓子が置かれるという事件が起こり、全国の国民を不安に陥れた。

そして、2000年2月13日に、「青酸入り菓子ばら撒き事件」の殺人未遂罪が時効となり、全ての事件の公訴時効が成立した。

警察庁広域重要指定事件において、初の未解決事件となった有名な事件である。

 

 

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