【未解決事件】山口市赤妻町女性殺人事件 妻を殺害して逃亡

【山口市赤妻町女性殺人事件】

 

山口市赤妻町女性殺人事件は、2009年(平成21年)に山口県山口市で発生した殺人事件である。

2009年1月14日午前9時45分頃、山口県山口市赤妻町のアパートに住んでいた無職の村田一枝さん(当時71歳)が自室で死亡しているのが発見された。

発見したのは訪れたホームヘルパーで、村田さんは首にタオルのようなものを巻かれ、6畳間のベッドの上で仰向けで倒れていた。

村田さんは病気がちだったため、市内にある施設の介護サービスを利用していた。

翌15日に司法解剖をした結果、死因は頸部圧迫による窒息死と判明し、死亡推定時刻は11日夜から12日朝の間と見られる。

村田さんは、夫(当時73歳)と2人暮らしをしていたが、夫は部屋にメモを残して行方が分からなくなっていた。

夫は2008年9月まで市内にある事業所に務めていた。

山口署は、夫が何らかの事情を知っていると見て、付近の山などを捜索した。

自宅には夫が普段使用していた乗用車が残されており、交通機関への聞き込みも行ったが、夫の手掛かりを掴む事はできなかった。

残されていたメモの内容が心中をほのめかすものだった事や、村田さんの遺体の状況から、山口署は夫の犯行と断定し、夫の村田俊治容疑者を殺人容疑で全国に指名手配した。

 

現場は、県庁から南西に約3kmのところにあるアパートや民家が立ち並ぶ閑静な住宅街の一角で、赤妻町では2007年10月にも元暴力団組長が拳銃で射殺されるという事件が発生している。

近所に住む男性によると、村田さんの住んでいたアパートは住人の入れ替わりが激しいため、村田さん夫婦とは面識がなかったという。

村田さんと買い物先でよく話しをしていたという近所の女性の話では、村田さんは夫婦一緒に車で買い物に出掛けていて、仲は良さそうだったという。

村田俊治容疑者の足取りは未だ分かっておらず、山口署は情報提供を呼び掛けている。

<連絡先>

山口警察署 刑事第一課

083-924-0110

山口県警察本部 捜査第一課

083-933-0110

 

「山口署が作成したチラシと村田容疑者の情報」

山口署が作成したチラシ

山口市赤妻町女性殺人事件のチラシ
出典:山口警察署

 

村田容疑者の情報

・名前:村田俊治(むらた しゅんじ)

・生年月日:昭和10年9月15日

・当時の年齢:73歳

・身長:165cmくらい

・体型:痩せ型

・当時の髪型:短髪

 

 

【未解決事件】下関市竹崎町金券ショップ経営者殺人事件

【下関市竹崎町金券ショップ経営者殺人事件】

 

下関市竹崎町金券ショップ経営者殺人事件は、2008年(平成20年)に山口県下関市で発生した殺人事件である。

2008年3月3日午後7時20分頃、山口県下関市竹崎町のJR下関駅沿いの路上で、金券ショップを経営していた下関市東大和町在住の田中明徳さん(当時52歳)が血を流して死亡しているのを通行人が発見した。

田中さんは、ナイフのようなもので十数ヶ所も刺されていた。

司法解剖の結果、死因は胸や背中などを刺された事による失血死と判明し、腕には抵抗した時にできたと見られる防御創も複数あった。

数十万円が入った田中さんのバッグや携帯電話などは現場に残されており、凶器は発見されていない。

田中さんは、金券ショップを閉店後、いつも通る帰宅路で襲われた。

 

事件発生直後、現場から立ち去った不審な男が目撃されているが、現場は暗い場所で、事件当時は雨も降っていたため、人通りが少なかった。

下関署は、この男が犯人と見て、事件発生から2年間に延べ約1万1千人の捜査員を動員し、田中さんが経営していた北九州市内にあるもう1店にも捜査員を派遣したが、有力な手掛かりは得られなかった。

未だ犯人に結び付くような有力な情報は得られておらず、同署はこの事件に関する情報提供を呼び掛けている。

<連絡先>

下関警察署 刑事第一課

083-231-0110

山口県警察本部 捜査第一課

083-933-0110

 

「下関署が作成したチラシと犯人と思われる男の情報」

下関署が作成したチラシ

下関市竹崎町金券ショップ経営者殺人事件のチラシ
出典:下関警察署

 

犯人と思われる男の情報

・当時の年齢:30~40歳くらい

・性別:男

・身長:170~175cmくらい

・当時の服装:黒っぽいジャンパー、黒っぽいズボン、黒っぽい野球帽を被っていた

 

 

【未解決事件】山口市佐山母娘強盗殺人事件

【山口市佐山母娘強盗殺人事件】

 

山口市佐山母娘強盗殺人事件は、2013年(平成25年)に山口県山口市で発生した強盗殺人事件である。

2013年3月26日朝、山口県山口市佐山に住んでいた無職の村谷照代さん(当時85歳)と長女の佳子さん(当時64歳)が、自宅で殺害されているのが発見された。

発見したのは被害者宅を訪れたガス業者で、村谷さん親子は室内で頭から血を流して倒れていた。

発見時、照代さんは寝間着姿、佳子さんは普段着姿で、着衣に目立った乱れはなかったという。

司法解剖の結果、2人の死因は頭蓋骨骨折による脳挫傷と判明し、頭部には鈍器のようなもので執拗に殴られた傷跡があった他、2人には防御創と見られる外傷が体にもあった事が判明した。

死亡推定時刻は、発見の2日前の24日夜と見られている。

 

発見時、玄関のカギは閉まっており、母屋の勝手口と別のドアの窓ガラスが割られていた。

室内には物色した形跡があったが、現金が入った財布は複数残されていた。

近所の住民によると、自治会の会合で「先月末から付近で耕運機や自動車などが盗まれる被害が発生している」と報告されていたようだ。

近くに住む高齢女性は「1人暮らしなので非常に怖いと思い、防犯対策を考えていた。」と話していた。

山口南署は強盗殺人事件として捜査を開始し、現場から指紋や足跡、DNAなどを採取したが、2人が被害に遭った事で情報が少なく、盗まれた被害品も特定できない状態で、凶器も特定されていない。

また、現場は田畑が広がる中に点在する民家のため、目撃情報を得るのも難しい状況となっている。

ちなみに、現場の母屋は事件発生から1年後の2014年3月に取り壊されているため、現在は存在しない。

これまで9万人以上の捜査員を投入し捜査してきたが、未だ犯人に結び付くような有力な情報は得られていない。

山口南署は、チラシを配るなどして情報提供を呼び掛けている。

<連絡先>

山口南警察署 刑事第一課

083-972-0110

山口県警察本部 捜査第一課

083-933-0110

 

 

【未解決事件】仁保事件 山口市で発生した重大冤罪事件

【仁保事件】

 

仁保事件(にほじけん)は、1954年(昭和29年)に山口県山口市で発生した殺人事件である。

1954年10月26日午前0時頃、山口県山口市仁保中郷にある国鉄(現在のJR西日本)山口線仁保駅から、北東に約2km行った山あいの中腹で農業を営んでいた一家が、就寝中に襲われ殺害された。

殺害されたのは、農業を営む男性(当時49歳)とその妻(当時42歳)、母親(当時77歳)、三男(当時15歳)、四男(当時13歳)、五男(当時11歳)の6人。

6人は、襖で隔てられた3つの部屋で布団に入って寝ていたところを何者かに頭部や顔面を鈍器で殴打されたり、頸部と胸部を鋭利な刃物で刺されたりされ、布団の上で血まみれになって死亡していた。

後の捜査で頭部を鍬で割り、頚動脈を切り心臓を刺すというような執拗な殺害方法である事が分かった。

この一家は裕福な一家で、近隣に8反もの農地と山林を所有しており、女性関係も派手だったという。

事件が発覚したのは26日の午前7時頃で、この一家の家はいつも雨戸を開けていたが、この日は開いていなかった。

それを不審に思った隣に住む主婦が、家の中を覗きに行ったところ6人の遺体を発見し、警察に通報した。

 

山口県警は当初、怨恨と物盗りの両方を想定して捜査を進め、現場近辺の前科者約160人を容疑者としてリストアップし、一人一人しらみ潰しに当たっていった。

そして、怨恨の疑いで隣の家に住む男性を逮捕したが、証拠不十分で23日間の勾留で釈放した。

その後、山口県警はリストを徹底的に洗い直し、当時37歳だった男が新たな容疑者として浮上した。

しかし、この男はリストから消去法で選ばれただけで、確固たる証拠がある訳ではなかった。

この男は、事件発生の1年半前から郷里を出奔していた事からリストから外されていた男だった。

山口県警はこの男を、以前友人と2人で商店に侵入した窃盗未遂容疑で全国に指名手配した。

窃盗未遂容疑で全国に指名手配するのは、当時としては異例の事だった。

そして、1955年10月19日、大阪市天王寺区の天王寺駅で、住居侵入の容疑でこの男を逮捕し、翌20日に山口警察署に移送した。

 

1955年10月31日、この男は仁保事件とは別の窃盗未遂事件で起訴され、12月10日には別件のマンホールの蓋の窃盗の罪状で起訴された。

男は、ひいきにしていた弁護士の弁護を要求したが、警察が取り合わなかった事で男は弁護士が付かないまま、取り調べを受ける事となった。

同年11月2日、仁保事件の取り調べが始まったが、確固たる証拠のない状態での取り調べだった。

男はアリバイを主張し、犯行の関与を否定した。

その後、男の供述は自供したりしなかったりと迷走し、自供が最終的な形になったのは検察の取り調べが行われる1956年3月22日の事だった。

1956年2月1日、男は山口拘置所に移管され、同年3月23日には男を連れて現場検証が行われた。

そして、同年3月30日に起訴の運びとなった。

 

「裁判」

1956年3月30日、男を山口地方裁判所に起訴した。

同年5月2日には山口地裁で初公判が行われ、男は取り調べ時とはうってかわって犯行を全面否定した。

1962年6月15日、山口地裁は検察に対する自供の任意性は認めたものの、「警察の取調べでの拷問の事実は否定したものの被告の自供には無理がある」とし、男に死刑判決を下したが、男は広島高等裁判所に控訴した。

1968年2月14日、広島高裁は控訴を棄却し、山口地裁の第1審の死刑判決を支持した。

1970年7月31日、最高裁判所は自供の任意性への判断は保留したが、自供の変遷に対して少なからず信用できない点があるとし、第2審の判決を破棄し広島高裁へ差し戻した。

また、弁護側は最高裁で、現場には最低でも3人分の足跡があり、創傷を分析すると鍬・出刃包丁以外の凶器が使用されているという2点から、男の無罪を主張した。

そして、同年9月22日、男の釈放が決定した。

1972年12月14日、広島高裁は別件のマンホールの蓋の窃盗で懲役6ヶ月の判決を下したが、仁保事件での殺人に対しては無罪判決を下した。

そして、同年12月27日、検察は上告を断念し、男の殺人に対する無罪が確定し、事実上、未解決事件となったが、この事件は重大な冤罪事件でもある。